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佐々木塁(青山学院大陸上部)の父や佐々木朗希との関係は?出身高校や進路は?

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青山学院大学陸上部佐々木塁選手

中学時代には1500mで当時の日本記録を樹立している長距離選手です。

大学ではまだ三大駅伝への出場はありませんが、今後の活躍が期待されています。

また、佐々木塁選手は千葉ロッテの佐々木朗希投手とも関わりの深い人物だそうです。

そこで今回は佐々木塁選手朗希投手の関係家族経歴などについて調べてみました。

佐々木塁のプロフィール

名前:佐々木 塁(ささき るい)
生年月日:2001年7月20日
出身:岩手県陸前高田市
身長:168cm
体重:55kg
経歴:盛岡市立河南中学校→岩手県立盛岡第一高等学校→青山学院大学

佐々木塁の父

岩手県陸前高田市出身佐々木塁選手2011年3月11日に起こった東日本大震災で、・敏行さんを亡くされています。

敏行さんは生前、しょうゆ醸造会社で働かれていたそうです。

しょうゆ醸造会社で働いていた父は責任感が強く、震災の日、消防団の任務で避難誘導や水門を閉めに走ったが、数日後に遺体で発見された。

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佐々木塁の小学生時代

野球が好きだったから「塁」と名付けられた佐々木塁選手は、小学生時代は野球をされていました。

同期のチームメイトには、千葉ロッテの佐々木朗希投手がいました。

名字は同じでも特に血縁関係などはないそうですが、お互いの家に遊びにったりするほど仲が良かったそうです。

「低学年チームで朗希君は投手で、僕は二塁手でした。朗希君は同級生より20センチくらい大きかった。野球がすごくうまくて、投げるボールはすごく速かった。同じ佐々木でも親戚ではありませんけど、お互いの家に遊びに行ったりするほど仲が良かった」

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その後、小学3年生の終わり東日本大震災発生

佐々木塁選手と朗希投手はともに津波によって父を亡くし、佐々木塁選手・勤子(いそこ)さんの実家がある盛岡市へ、朗希投手は大船渡市に転居しました。

佐々木塁の中学時代

転居先でも小学校卒業までは野球を続けていた佐々木塁選手は、中学校に入学してから本格的に陸上を始めました。

元々、走ることが得意だったこともあり、1年経たないうちに陸上の才能を開花!

1500m4分4秒00中学1年日本記録をマークしています。

その記録は今でも破られていません!

さらに中学2年時には4分0秒01中学2年日本記録(当時、現在歴代5位)。

中学3年時には3分53秒69中学日本記録(当時、現在歴代3位)をたたき出し、「天才中学生ランナー」と呼ばれていました。

佐々木塁の高校時代

中学卒業後は岩手県立盛岡第一高校進学

盛岡第一高校は石川啄木や宮沢賢治も通った岩手有数の文武両道の名門校です。

佐々木塁選手は高校でも、
1年時国体3000m3位
2年時国体800m6位
3年時国体800m8位
と全国レベルで安定した成績を残されていました。

佐々木塁の大学時代

青山学院大学に進学後は、大学三大駅伝への出場はありませんが、
1年時関東インカレ1500m6位
2年時関東学生新人1500m2位入賞を果たしています。

佐々木塁の自己ベスト

5000m:14分00秒55
10000m:29分13秒65
ハーフマラソン:1時間03分27

佐々木塁の進路

佐々木塁選手はすでに大学までで陸上を辞めることを公表されています。

大学卒業を機に競技の第一線から退くことを決めており、現在、就職活動を行っている。

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佐々木塁のまとめ

佐々木塁選手の陸上生活最後の目標は箱根駅伝最終10区を走ることだそうです。

青山学院大学の原晋監督も
「4年目はアンカーを走ってほしい。競技と学業で努力を重ねる爽やか青年だから、第100回箱根駅伝の優勝のゴールテープを切るにふさわしい選手です」
と期待をかけています。

このまま陸上を辞めるのは少しもったいない気もしますが、箱根駅伝ではアンカーを務めて、有終の美を飾ってほしいですね!