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河野和洋(元明徳)の現在は帝京平成大監督!息子がすごい?結婚した嫁は?

帝京平成大学野球部の河野和洋監督。

明徳義塾高校時代には3年夏甲子園で、当時、星稜高校の3年生だった松井秀喜さんを5打席連続敬遠して注目を集めました。

その後、河野和洋監督は40過ぎまで現役を続けてから、指導者に転身されています。

河野和洋のプロフィール

名前:河野 和洋(こうの かずひろ)
生年月日:1974年12月26日
出身:高知県
身長:177cm
体重:93kg
投打:右投げ左打ち
現役時代のポジション:外野手兼投手
経歴:専修大学→ヤマハ→アメリカ独立リーグ→熱血MAKING→全三郷

河野和洋の高校時代

高校時代、河野和洋監督明徳義塾でプレー。

高校3年の夏には背番号8ながら、実質エースとして活躍し、甲子園出場を果たします。

甲子園では2回戦で松井秀喜さんのいた星稜高校と対戦。

明徳義塾3対2で星稜高校に勝利したものの、この試合で先発した河野和洋監督松井秀喜さんを5打席連続敬遠してしまい、批判の的になってしまいました。

その試合を振り返って、河野和洋監督は以下のように話されています。

ブーイングという言葉をあの試合で初めて知りました。ただ、敬遠は馬淵(史郎)監督が勝つためにやった作戦で、私たちは指示に従った。ルール内ですから別に恥じることはないと思っています。当時は5万5000人を敵に回すより、サインを無視して監督を敵に回す方が怖かったですからね(苦笑)。

松井を5連続敬遠した投手 「観客より監督の方が怖かった」

確かに明徳義塾馬淵史郎監督は怒ったら怖そうですからね。

5打席連続敬遠についてはこちらの本に詳しく書かれていました。


この本を読んだ前と後ではかなり印象が変わってくると思いますね。

河野和洋の大学時代

高校卒業後、河野和洋監督専修大学進学

大学の同期には後にメジャーリーガーとなる黒田博樹さんがいましたが、入学当時は(違う意味で)河野和洋監督の方がよっぽど有名人だったそうです。

河野和洋監督は大学では野手に専念し、大学通算21本塁打をマークしています。

この数字は1部リーグと2部リーグを合わせての記録ですが、東都で通算21本塁打はかなり優秀ですね!

4年次には主将も務め、にはベストナインにも選出されていました。

河野和洋の大学卒業後

大学卒業後は社会人野球のヤマハ2年半プレーした後、プロを目指して、アメリカの独立リーグに活躍の場を移します。

しかし、結局、プロへは進むことができずに日本に戻ってきて、クラブチーム・千葉熱血MAKING選手兼任監督をされていました。


その後、埼玉県の全三郷でもプレーし、2016年41歳現役を引退しています。

河野和洋の指導者時代

引退後は「指導者として甲子園に出たい」と考えていましたが、その頃、海外の独立リーグ経験者は学生野球資格回復研修制度対象外で、学生野球の監督になることはできませんでした。

2018年ルール改正され、学生野球指導の資格を回復。

2019年2月千葉県大学野球連盟2部リーグ帝京平成大学硬式野球部コーチに就任、同年11月には監督に就任しました。

河野和洋の結婚した嫁と子

河野和洋監督32歳の時に結婚されています。

奥さんの名前は河野由利子さんです。

2人の間には娘さん息子さんが一人ずついます。

娘さんについては詳しいことはわかっていませんが、息子さんの河野球人(きゅうと)さんはバレエをされていて、ニューヨークで行われた世界大会のコンクールに出場したほどの実力を持っています。


「球人」という名前からもわかるように河野和洋監督は野球をさせたかったのですが、あまりにもスパルタだったために野球が嫌いになり、お母さんがされていたバレエをするようになったそうです。

今後はの代わりに、世界で活躍するようなダンサーに成長していってほしいですね!

河野和洋のまとめ

河野和洋監督が率いる帝京平成大学は2001年までは千葉県大学野球連盟所属でしたが、2002年からは東都大学野球連盟に移ることが決まっています。

最初は4部リーグからのスタートですが、
「いつかは神宮球場で選手と一緒に大声で校歌を歌いたい。そしていつかは同校から初のプロ野球選手を出したい」
と話されています。

今後の河野和洋監督帝京平成大学野球部の活躍が楽しみですね!