バレーボール

池条義則監督(金蘭会)のwiki風経歴!現役時代や指導方針は?

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大阪の女子バレー界で、今もっとも存在感を放つ指導者。

それが金蘭会高校女子バレー部池条義則監督です。

インターハイ、春高バレー、国体。

数々の全国タイトルを獲得し、金蘭会を“日本一の常連校”へと押し上げました。

しかし就任当初は、部員数わずか数人。

ユニフォームすら満足に揃わない状況だったと言います。

そこから、なぜ全国制覇までたどり着けたのか。

今回は池条義則監督の歩みと、その指導哲学に迫ります。

池条義則のプロフィール

名前:池条 義則(いけじょう よしのり)
出身:大阪府寝屋川市
経歴:寝屋川市立西小学校→寝屋川市立第二中学校→大阪府立南寝屋川等学高校→大阪体育大学

池条義則の小学中学時代

池条義則監督がバレーボールと出会ったのは、小学6年生の時でした。

きっかけはテレビアニメ『ミュンヘンへの道』です。

『ミュンヘンへの道』はミュンヘン五輪で男子日本代表を金メダルへ導いた物語。

その姿に心を奪われ、中学校で本格的にバレーを始めます。


進学先は寝屋川市立第二中学校

当時は練習環境も決して恵まれておらず、体育館を使える日は週に1度ほどでした。

それでもバレーボールへの情熱は消えません。

限られた環境で工夫しながら練習を重ねた経験は、後の指導にも生きています。

池条義則の高校時代

高校は大阪府立南寝屋川高校へ進学。

ポジションはセッターでした。

南寝屋川高校では、3年連続で近畿大会に出場。

強豪校ではなかったものの、確かな実績を積み上げます。

一方で、池条義則監督自身は小柄な体格。

全国レベルで戦うには限界も感じていました。

この頃から、
「自分は選手より指導者の方が向いているのではないか」
そんな思いが芽生え始めたそうです。

池条義則の大学時代

高校卒業後は大阪体育大学進学

将来は体育教師を目指していました。

大学バレー部では控えチームに所属。

3年生からは母校・南寝屋川高校コーチを務めています。

この経験が、指導者としての原点となりました。

強豪校との練習試合を組み、選手が成長する姿を見る日々。

「教えることの面白さ」に、完全に目覚めた瞬間でした。

池条義則の指導者時代

大学卒業後、池条義則監督は高校教員として現場に立ちます。

最初は府立の定時制高校に赴任しました。

定時制のバレー部を受け持ち、授業後の夜9時から猛練習。

生徒たちは必死についてき、男子は定時制の全国大会に出場しました。

その後、30歳で母校・南寝屋川高校へ。

1年目男子を指導し、翌年からは女子バレー部監督としてチームを率います。

身長差を補うため、徹底的に磨いたのが守備力。

拾って、つないで、粘り勝つバレーで春高バレー7回出場を達成しました。

そして2007年

休部状態だった金蘭会高校バレー部の再建を任されます。

就任5年目2012年インターハイ全国大会初出場

2014年には春高バレーインターハイ国体の3冠を達成しました。

池条義則の指導方針

池条義則監督の指導の根幹にある言葉。

それは「健康・安全・安心」です。

ホワイトボードには、必ずこの三つを書き出します。

どれか一つ欠けても、強くなれないと語ります。

練習量は多い。

しかし“やり過ぎない”ことを徹底しています。

床のモップがけ一つにも意味があります。

ケガを防ぎ、選手が安心してプレーできる環境づくりです。

また、環境のせいにしない姿勢も特徴的です。

専用トレーニング室がなくても工夫する。

トレーナーがいなければ、自分で探す。

限られた条件でも、全国で勝てる方法を考え続けます。

さらに、勝っても満足しません。

祝勝会でも「次の戦い」を口にする指導者です。

結果よりも、成長。

その積み重ねが、日本一を量産する原動力となっています。

池条義則のまとめ

池条義則監督は、環境に恵まれていた指導者ではありません。

それでも、工夫と継続で道を切り開いてきました。

無名チームを、日本一へ導いた男です。

選手の体と心を守りながら、勝利を追求する。

その姿勢こそが、金蘭会の強さの正体でしょう。

これからも池条義則監督の指導は、多くの指導者、そして選手に影響を与え続けそうです。