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大澤徹也(バスケ)のwiki風経歴!現役時代や指導方針は?

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高校バスケ界で、今もっとも注目を集める指導者の一人。

それが東山高校バスケットボール部ヘッドコーチの大澤徹也さんです。

2024年夏東山高校インターハイで悲願の初優勝!

長年全国の舞台であと一歩届かなかったチームを、日本一へ導きました。

「100点取られたら101点取る」

この言葉に象徴される超オフェンシブなバスケは、多くのファンを魅了しています。

では、大澤徹也さんはどんな道を歩み、どんな指導を続けてきたのでしょうか。

その原点から、指導哲学の核心までを詳しく見ていきます。

大澤徹也のプロフィール

名前:大澤徹也
出身:愛知県
生年月日:1981年7月2日
経歴:京都市立洛西中学校→東山高等学校→日本大学

大澤徹也の小学・中学時代

大澤徹也さん1981年7月2日生まれ愛知県出身です。

バスケットボールを始めたのは小学4年生の頃でした。

小学生時代から身長が高く、小学6年生約180cm

目立つ体格ながら、当時は内気な性格だったと語っています。

転機は、熱心に声をかけてくれた先生の存在でした。

その出会いがなければ、バスケ人生は始まらなかったかもしれません。

その後、愛知県内のミニバス教室で本格的に競技に打ち込みます。

県大会準優勝を経験し、全国レベルの空気を肌で感じました。

中学は京都府の洛西中学校へ越境進学。

2年時には全国中学校大会優勝を果たしています。

この頃から「勝たなければならない」という重圧と向き合う経験を積みました。

指導者としての覚悟は、すでにこの時期に芽生えていたのかもしれません。

大澤徹也の高校大学時代

中学卒業後、進学先に選んだのは京都の東山高校

当時はまだ全国常連とは言えない状況でした。

しかし、大澤徹也さんはあえてその道を選びます。

「自分が東山を勝たせる」という覚悟があったからです。

高校時代は苦しい時間の連続でした。

同じ京都には強豪の洛南高校がいたため、なかなか全国大会に届かず、悔しさを味わい続けます。

それでも努力を重ね、高校3年時ウインターカップ初の全国出場

その大会で得点王に輝く活躍を見せました。

この経験が「点を取るバスケ」への確信につながります。

後の東山スタイルは、ここから形作られていきました。



高校卒業後は日本大学へ進学。

全国トップレベルの環境で4年間プレーを続けます。

異なる指導や戦術に触れたことで、バスケ観はさらに広がりました。

大澤徹也の指導者時代

大学卒業後、すぐに大澤徹也さんは母校・東山高校バスケ部コーチに就任へ。

恩師・田中幸信先生のもとで指導者としての基礎を学びます。

その後、長年にわたり実質的な指揮を執り、2020年3月、正式にヘッドコーチへ。

岡田侑大選手、米須玲音選手など、数多くの逸材を育ててきました。

全国大会では準優勝を何度も経験。

あと一歩届かない悔しさを、誰よりも味わってきた指導者です。

そして2024年夏

インターハイ決勝で美濃加茂高校を下し、悲願の初優勝を達成しました。

大澤徹也の指導方針

大澤徹也さんの指導方針を一言で表すなら、超オフェンシブ

守るためではなく、勝つために攻め続けるバスケです。

「ディフェンスは誰でも教えられる。
でもオフェンスを本気で教えられる指導者は少ない」

この考えのもと、ハーフコートオフェンスを徹底的に磨きます。

特にピック&ロールは東山の代名詞となりました。

もう一つ大切にしているのが、選手との信頼関係です。

「エースのシュートで負けたなら仕方ない」

そう思えるチーム作りを目指しています。

選手に責任を与え、覚悟を引き出す指導が特徴です。

また、学業との両立にも厳しく向き合います。

高校生である以上、勉強は最優先。

その上で、プロに行ける可能性がある選手には道を示す。

現実的で、選手思いの姿勢が伝わってきます。

大澤徹也のまとめ

大澤徹也さんは、東山高校バスケ部の象徴的存在です。

選手として悔しさを知り、指導者として壁を越えてきました。

超オフェンシブな哲学。

選手を信じる覚悟。

そして、人を大切にする姿勢。

そのすべてが重なり、東山高校日本一に辿り着きました。

これからも、大澤徹也さんの挑戦は続きます。

次はどんなチームで、どんな景色を見せてくれるのか。

高校バスケファンなら、目を離せません!