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申原直樹監督(ヤマハ)のwiki風経歴!出身高校大学や指導方針は?

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2025年、社会人野球のヤマハは、記念すべき第50回社会人野球日本選手権大会で見事9年ぶり2度目の優勝を果たしました。

この歓喜の頂点に立ったのが、就任2年目の申原直樹監督です。

優勝監督インタビューでは
「こんなに幸せなことはありません。みんな最高です」
と感極まっていました。

今回はそんな申原直樹監督の選手時代から、指導者としての哲学までを深掘りしていきます。

申原直樹のプロフィール

名前:申原 直樹(のぶはら なおき)
生年月日:1979年6月29日
出身:兵庫県神戸市
経歴:報徳学園高等学校→中央大学→ヤマハ

申原直樹の高校時代

兵庫県神戸市出身申原直樹監督は強豪・報徳学園の出身です。

高校3年生だった1997年には、甲子園内野手として出場されました。

春のセンバツではチームはベスト4に進出する快挙を成し遂げています。

同年夏兵庫県大会決勝は、前年夏の覇者・神港学園との大激戦となりました。

試合は八回表に逆転されるものの、八回裏に報徳学園が追いつき、
そして九回裏、4番を務めていた申原直樹監督がバックスクリーンへ劇的なサヨナラ3ランホームランを放ち、激闘に終止符を打ちました。


続く夏の甲子園では、初戦日大東北高校7対6で勝ったものの、続く2回戦浜松工業5対11で敗れています。

申原直樹の大学時代

高校卒業後、申原直樹監督中央大学進学し、野球を続けました。

大学では、後にプロ野球・巨人の監督となる阿部慎之助監督一学年後輩にあたります。

申原直樹監督は、4年時には阿部慎之助監督から主将を引き継ぎ、チームをまとめ上げる役割を担いました。

申原直樹の社会人時代

大学卒業後、申原直樹監督は社会人野球のヤマハに入社し、内野手として4年間の現役生活を送りました。

社会人時代はレギュラーになれず、主に控え選手としての道を歩まれたようです。

社会人1年目の2002年には、都市対抗野球大会社会人野球日本選手権に出場しています。

社会人3年目にも都市対抗野球大会社会人野球日本選手権に出場。

社会人4年目には都市対抗野球大会に出場しました。

現役を終えた後は、ヤマハ4年間マネージャー業を務め、組織運営や信頼関係構築の重要性を深く学びました。

2023年に12年ぶりにスカウト兼総合コーチとして現場に戻り、夏の都市対抗野球大会ではチーム33年ぶりの決勝進出(準優勝)に貢献されました。

そして2024年1月1日付で、前任の室田信正監督の退任に伴い、新監督に就任。


就任2年目都市対抗野球大会ではベスト4入りを果たすと、秋の社会人野球日本選手権では日本一を達成しています。

申原直樹の指導方針

申原直樹監督は、選手からも「のぶ監督」の愛称で選手から慕われており、選手との距離が非常に近いのが特徴です。

若手選手に課題を伝える際は、大勢がいるグラウンドではなく、移動のバスの中で隣の席に座り、やんわりと思いを伝えるという、穏やかで気遣いの人柄がうかがえるエピソードがあります。

また、ご自身がレギュラーになれなかった経験から、”控え選手の気持ちがわかる”と語り、
「一人ひとりの選手に寄り添い、積極的に声をかける姿勢は、これからも変わることはありません」
と話されていますね。

中央大学時代に、1学年先輩の阿部慎之助監督が部内のルールを撤廃し、チームの成績が上がった姿を目の当たりにしました。

その経験から、「日本一になるために何が必要か」を常に問いかけ、風通しよく、選手の主体性を重視する方針を掲げています。

2025年には都市対抗で敗れた悔しさを財産に変え、選手が自ら考えて意識を変えたことが、社会人野球日本選手権での日本一につながりました。

申原直樹のまとめ

申原直樹監督は、熱血指導というよりは、選手の個性を活かし、力を発揮しやすい雰囲気づくりを最優先する「気遣い」の指導者です。

就任2年目にして社会人野球日本選手権優勝という結果を出しましたが、
「おごることはない。来年の戦いが大事になる」
と、すでに視線は次に向けられています。

申原直樹監督が掲げる「常勝軍団」の完成に向けたヤマハの新たな一歩に、今後も目が離せませんね!