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伊藤数馬アナウンサーがイケメン!東大野球部時代は?身長や出身高校は?

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今春、東京大学を卒業して、名古屋テレビ(メ~テレ)に入社した伊藤数馬アナウンサー

大学時代は野球部に所属し、野球に打ち込んできました。

伊藤数馬アナは大学4年間の野球部生活で、捕手→投手→学生コーチ→マネージャー→学生コーチ→マネージャーというジェットコースターのようなポジション遍歴を経験しています。

「なんでそんなことになったの?」って思いますよね。

でも、その一つひとつの転身には、伊藤数馬アナの真剣に野球と向き合ってきた姿と、何度転んでも前を向き続けた人間としての強さが詰まっているんです。

東大野球部という、日本で最もレベルが高く、最も過酷な環境の一つで、勝つために、チームのために、自分のあり方を問い続けた4年間。

その経験が、今春から名古屋テレビのアナウンサーとして新たなスタートを切った伊藤数馬アナを作り上げたといっても過言ではないでしょう。

どんな野球人生を歩み、どんな思いでマイクを握ることになったのか。

伊藤数馬アナの軌跡を、一緒にたどってみましょう!

伊藤数馬のプロフィール

名前:伊藤 数馬(いとう かずま)
生年月日:2002年7月5日
出身:愛知県
身長:177cm
体重:65kg
投打:右投げ右打ち
経歴:愛知県立旭丘高等学校→東京大学


伊藤数馬の小学生時代

伊藤数馬アナ野球と出会ったのは、小学校3年生の夏のことでした。

それまではサッカー少年で、将来の夢の欄には「サッカー選手」と書いていたそうです。

きっかけは夏休み。

宿題を早々に終わらせてしまって暇を持て余した数馬少年が、テレビで甲子園を見ていたんです。

そこで目にした白球の輝きに、心をぐっと掴まれてしまった。

「甲子園に行きたい!」

その一心で、気づけばサッカーボールではなくグローブを手にしていました。

小学校4年生からはクラブチームに入団。

入団初日、「どのポジションをやりたい?」と聞かれた数馬少年の答えは即答で「ピッチャー!」

理由はシンプルで、「一番かっこよくて楽しいから」でした。

でも野球の道はそんなに甘くはなかったようで、クラブチームでの日々はとにかく泣いた記憶しかないと伊藤数馬アナは振り返っています。

エラーをしては泣いて、監督に叱られては泣いて、試合に負けては泣いて。

それでも泣くほど一生懸命だったからこそ、指導者からは戦術や技術をしっかり叩き込んでもらい、「野球がいかに頭を使うスポーツか」ということを小学生のうちから学んでいきました。

この「頭で野球を考える」姿勢は、のちに東大野球部でも生きてくることになります。

6年生になると投手から捕手にコンバートされ、さらにキャプテンも任されました。

責任感から練習は手を抜かない、サボっている仲間にはすぐ注意する——周りからしたら「ちょっと厳しすぎるキャプテン」だったかもしれませんが、それだけ本気だったということです。

捕手・投手・三塁手と複数ポジションをこなし、打者としても投手としてもそこそこの成績を残すまでに成長しました。

この頃はまだ、将来自分がアナウンサーとしてマイクの前に立つことなんて、夢にも思っていなかったでしょう。

ただただ、甲子園だけを見つめて白球を追いかけていた少年の物語は、ここからどんどん波乱万丈な展開を迎えていきます。

伊藤数馬の中学高校時代

小学校時代に野球への情熱を燃やし続けた伊藤数馬アナでしたが、中学に上がってからの道のりは、決して順風満帆ではありませんでした。

中学の軟式野球部に入部すると、最初は順調でした。

投手不足だったこともあり、入学したての1年生ながら公式戦に登板するほど期待されていたんです。

「これからどんどん上手くなれる!」

そんな手応えを感じていた矢先、悲劇が訪れます。

肩を壊してしまったんです。

身体の成長が追いつかないまま中学生の練習量と強度をこなしていた結果、肩が悲鳴を上げてしまいました。

真夏の炎天下、全体練習から外れてひたすら校舎の外周を走る日々。

半年以上まともにボールが投げられなかったといいますから、どれほど辛かったか、想像するだけで胸が痛くなりますよね。

そしてこの時期に重なったのが、思春期。

数馬少年はここで「サボること」と「遊ぶこと」を覚えてしまいます。

一生懸命練習するのはダサい、先生には反抗する——本人いわく「人生で一番クソな冬」を過ごしていたそうで、態度の悪さからスタメンを外されてしまうことも。

でも、そんな暗黒時代に光が差し込んできます。

中2の秋頃、同じクラスの仲良い友人Aくんから、こんな一言をもらったんです。

「一緒に旭丘高校で甲子園を目指そう」

愛知県立旭丘高校といえば、県立の進学校で専用グラウンドもない。

いわゆる「野球エリート」が集まる学校ではありません。

それでも、21世紀枠で選抜を狙える条件は十分に揃っている。

一度は諦めかけた甲子園の夢が、再び胸の中でメラメラと燃え上がった瞬間でした。

そこから伊藤数馬アナは見違えるように変わります。

全体練習後に家でバットを振りまくり、左打席にも挑戦し、なんと箸まで左手で持って練習したというのだから本気度が伝わってきますよね。

無事に旭丘高校に合格し、Aくんとともに野球部へ入部。

高校野球の3年間は、本人が「野球人生の中で一番楽しく充実した3年間だった」と語るほど、充実したものになっていきました。

硬式球に戸惑いながらも食トレ・筋トレを重ね、2年生の春には打てるようになってきた手応えも掴みました。

毎週末の練習試合で試合をして、ノートに振り返りをして、また試合で試して——その繰り返しがただひたすらに楽しかったと言います。

専用グラウンドがなくてもほぼ毎週末遠征で試合ができる環境が、伊藤数馬アナをぐんぐん成長させていきました。

ところが、高校野球最後の夏にも、またしても試練が待ち構えていました。

夏の大会2週間前の練習試合中、顎にボールが直撃して骨折

そのまま入院・手術という最悪の事態になってしまったんです。

医者からは「試合には出られないと思っておけ」と告げられました。

それでも伊藤数馬アナは諦めませんでした。

親を説得し、お医者さんにも出場を認めてもらい、恵みの雨による1週間の順延もあって、なんとか途中出場を果たします。

結果はコールド負け

退院明けで万全のプレーができるはずもなく、高校野球はあっけなく幕を閉じました。

それでも、骨折を押してでもグラウンドに立とうとした執念。

この「どんな状況でも前を向く粘り強さ」こそが、伊藤数馬アナという人間の本質なのかもしれません。

そしてこの粘り強さは、この後の東大受験でも、野球部での苦闘でも、そしてアナウンサーとしての道でも、きっと大きな武器になっていくはずです。

伊藤数馬の東大野球部時代

高校野球を終えた伊藤数馬アナは、もともと「大学ではテニスサークルにでも入って東京で遊ぼう」と考えていたそうです。

浪人前提で東大を目指してはいたものの、野球は高校で終わりにするつもりだった。

でも、勉強漬けの浪人生活を送っていると、ふつふつと込み上げてくるものがありました。

「やっぱり、もう一度野球がしたい」

しかも「やるからには本気でやりたい」という思いと、高校最後の大会を骨折で満足に戦えなかった心残りが重なって、気づけば東大野球部を目指して勉強していたというから、本当に野球が好きなんですよね。

そして一浪の末、見事東大に合格

迷わず入部届を出しました。

大学では捕手として入部した伊藤数馬アナでしたが、浪人中に全く運動をしていなかったこともあり、最初は思うようなプレーができなかったといいます。

夏の合宿でようやく感覚が戻ってきた!と手応えを掴んだ矢先、コロナに感染。

10日間バットが振れず、復帰後はなんとマシンのボールがバットに当たらなくなってしまったというのだから、野球の神様はなかなか意地悪ですね。

そんな打撃の惨状と、チームの投手不足が重なって、1年生の秋投手転向の誘いを受けます。

悩んだ末にピッチャーを始めた伊藤数馬アナが新たな武器として磨き始めたのが、ナックルボールでした。

打者の手元で予測不能な変化をする、いわば魔球です。

大した球速がなくても打者を翻弄できるこのボールは、まさに伊藤数馬アナのアイデンティティになっていきました。

しかし投手としての道も、順風満帆とはいきませんでした。

2年生のオープン戦でワンアウトしか取れずに大炎上。

リーグ戦で通用する未来が見えないと判断され、学生コーチ候補に名前が挙がるようになります。

仲間との重苦しい話し合いの末、2年秋学生コーチへ転身。

選手としてまだやりたい気持ちを抱えたまま、支える立場になることがどれほど苦しかったか。

それでも、自分が辞めれば仲間の誰かが選手人生を諦めることになる——その思いが伊藤数馬アナを野球部に踏みとどまらせました。

学生コーチになってからも苦悩は続きます。

チームがうまく回る中で「自分がいなくてもチームは回るんじゃないか」という存在意義への疑問が頭をもたげ、年末年始には「部活を辞めたい」母親に電話したこともあったといいます。

その後、学生コーチからマネージャーへの転身、さらに怪我をした仲間の代役として再び学生コーチへ、そして再びマネージャーへ。

結果的に捕手→投手→学生コーチ→マネージャー→学生コーチ→マネージャーという、前代未聞のポジション遍歴が出来上がりました。

伊藤数馬はなぜアナウンサーへ?

東大野球部での4年間を終えた伊藤数馬アナは、今春から名古屋テレビ(メ~テレ)アナウンサーとしての新たな一歩を踏み出しました。

「東大卒でアナウンサー」というだけでも十分に注目を集める経歴ですが、伊藤数馬アナの場合、野球部での経験がアナウンサーという職業の選択に深く結びついているように感じられるんです。

選手から学生コーチ、そしてマネージャーへと立場が変わっていく中で、伊藤数馬アナが一貫してやり続けていたことがあります。

それは、仲間に言葉を届けることでした。

Bチームのチーフ学生コーチとして後輩たちを引っ張っていた頃、
「数馬のおかげでBチームでも腐らなかった」
と言ってくれる後輩がいたといいます。

プレーで引っ張ることができない立場だからこそ、言葉でチームを鼓舞し、言葉で後輩に技術を伝え、言葉でチームの雰囲気を作っていった。

気づけば「伝える力」こそが、伊藤数馬アナの最大の武器になっていたのかもしれません。

また、投手として登板前夜に眠れず、深夜に名古屋のお母さんに電話をかけていたエピソードも印象的です。

「何を話すわけでもない、ただ弱音を吐くだけ」と本人は言いますが、誰かに言葉を届けることで心が軽くなる、その経験は「言葉の力」を肌で感じる貴重な時間だったはずです。

選手として悩み、支える立場として悩み、それでも言葉を使って仲間とつながり続けた4年間。

その積み重ねが「人に言葉を届ける仕事がしたい」という思いへと結びついていったのではないでしょうか。

伊藤数馬のまとめ

東大卒のアナウンサーというだけでも十分に異色ですが、伊藤数馬アナの場合はそこに「13年間の野球人生」「東大野球部での苦闘」「言葉で仲間を支え続けた経験」が加わります。

頭の良さだけでもなく、スポーツエリートでもなく、何度も転びながらも前を向き続けた人間としての厚みが、伊藤数馬アナを唯一無二の存在にしているんです。

その経験の深さは、きっとマイクを通じて視聴者の皆さんにも伝わるはずです。

スポーツ中継での熱い実況も、情報番組でのやわらかいトークも、伊藤数馬アナが語る言葉には、あの波乱万丈な野球人生で培った「本物の言葉の重み」が宿っているはずですから。

苦しかった4年間を糧に、故郷・愛知の地で、名古屋テレビのアナウンサーとして新たな挑戦が始まっています。

甲子園を夢見た少年が、今度はテレビ画面を通じて愛知中に言葉を届ける。

これ以上ないくらいステキな話ですね。

伊藤数馬アナのこれからの活躍を、心から応援しています。