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阿部東司(阿部慎之助の父)の経歴と子育て哲学!掛布とともに甲子園へ!

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2024年シーズンから読売ジャイアンツの監督に就任した阿部慎之助さん。

その活躍の裏には、「僕のことを一番長く見ているコーチ」と本人が語る存在がいます。

それが、阿部東司さんです。

阿部東司さんは、あの”ミスタータイガース”掛布雅之さんと高校時代にクリーンアップを組み、甲子園の舞台を踏んだ元野球選手

大学社会人でも捕手としてプレーし、引退後は千葉・浦安市で建設会社を経営する実業家でもあります。

そんな阿部東司さんが息子・阿部慎之助さんの野球人生に与えた影響は、技術面だけにとどまりません。

「とにかく褒めてください」を信条とした子育て哲学や、左打ちに転向させた意外なエピソードなど、知られざるストーリーが数多く残されています。

この記事では、阿部慎之助さんを育てた父・阿部東司さんの経歴や人物像を、さまざまなエピソードとともに詳しくご紹介します。ぜひ最後までお付き合いください。

阿部東司とはどんな人物?基本プロフィール

阿部東司さんは、巨人・阿部慎之助前監督の父親として知られる人物ですが、実はご自身も輝かしい野球キャリアを持つ元選手です。

ここでは、まず阿部東司さんの基本的なプロフィールと、野球との出会いのエピソードからご紹介していきます。

生年・出身地・現在の職業

阿部東司さん1955年生まれ千葉県出身です。

現在は千葉県浦安市に本社を置く東建設株式会社の代表を務めており、地域に根ざした実業家として活躍されています。

野球人としての顔と、経営者としての顔——この二つを持つ阿部東司さんですが、息子・阿部慎之助さんが中学時代に所属した浦安シニアではコーチもされていました。

ビジネスの傍ら、自らが培った野球の経験と知識を息子に直接伝え続けてきた存在です。

小学6年から野球を始めた遅咲きの経緯

実は阿部東司さん、幼い頃からエリート街道を歩んできた野球少年ではありませんでした。

本格的に野球を始めたのは、なんと小学6年生のとき。

それまでは親戚とキャッチボールをする程度で、チームに入って野球をしたのはこのタイミングが初めてだったといいます。

それでも持ち前の体格と運動センスで頭角を現し、中学でも野球を続けます。

ところが中学時代、家業を手伝うために練習を休んだことがきっかけで、なんと野球部を”クビ”になってしまうという波乱のエピソードも。

それでも野球への情熱は消えることなく、最終的には名門・習志野高校野球部へとたどり着くのです。

習志野高校野球部での輝かしい実績

小学6年生から野球を始めた遅咲きの阿部東司さんが、どのようにして千葉屈指の強豪・習志野高校野球部へとたどり着いたのか。

その道のりは、一筋縄ではいかない型破りなものでした。

ここでは、阿部東司さんの中学時代のドラマチックなエピソードと、高校での活躍をご紹介します。

中学で部をクビ→サッカー→復帰の型破り道

中学時代の阿部東司さんに、大きな転機が訪れます。

家業を手伝うために練習を休んだことがきっかけで、野球部を退部させられてしまうのです。

しかしここからが、阿部東司さんの真骨頂です。

野球ができなくなった阿部東司さんは、なんとクラスメイトを誘ってサッカー同好会を自ら立ち上げます。

ポジションはゴールキーパー。

本人いわく「サッカーのセンスは皆無だった」とのことですが、それでも仲間と楽しくボールを蹴る日々を過ごしていました。

ところが、自分をクビにした3年生が引退すると、心の中で抑えていた野球への情熱がふつふつと再燃。

仲間に向かって「俺、やっぱり野球やるぞ」と宣言します。

当然、自分で作ったサッカー同好会を急に辞めると言い出したわけですから、仲間からはかなりの反発を受けました。

それでも阿部東司さんは見事にこの局面を乗り越えます。

自ら生徒会長に立候補し、サッカー同好会を正式な「サッカー部」に昇格させることで、年間3万円の予算を獲得。

仲間への”落とし前”をきっちりつけたうえで、晴れて野球部へと復帰したのです。

その後、一生懸命に部活に打ち込む阿部東司さんのもとへ、習志野高校の監督がスカウトに訪れます。

中学3年生ですでに身長180cm近い恵まれた体格を一目見て、即決でスカウト。

こうして名門・習志野高校野球部への入部が決まりました。

野球を本格的に始めてからわずか数年でのことです。

掛布雅之と3・4番を組んだ甲子園出場

習志野高校に入部した阿部東司さんは、捕手としてチームの中心選手へと成長していきます。

そしてこの習志野高校時代に、のちにプロ野球界のスーパースターとなる人物と出会います。それが、同級生の掛布雅之さんです。

掛布雅之さんといえば、阪神タイガースの主砲として「ミスタータイガース」と呼ばれた名選手。

しかし高校時代の掛布雅之さんはホームランを量産するタイプではなく、2塁打・3塁打を量産する中距離ヒッタータイプだったといいます。

そのバッティングスタイルから、監督は掛布雅之さんを3番に配置。

そして4番の大役を任されたのが、体格と可能性を買われた阿部東司さんでした。

後の「ミスタータイガース」を3番に据えながら、4番を打っていたというのですから驚きですよね。

2人はこの強力なクリーンアップで高校2年生の夏に見事甲子園出場を果たしています。

ちなみに、この習志野高校には2学年後輩にヤクルトスワローズの元監督・小川淳司さんも在籍しており、錚々たる顔ぶれが揃った野球名門校だったことがわかります。

中央大・電電東京での野球キャリア

習志野高校で甲子園を経験した阿部東司さんは、卒業後も野球への情熱を持ち続け、大学・社会人とキャリアを重ねていきます。

ここでは、高校卒業後の阿部東司さんの野球人生をご紹介します。

中央大学で捕手として活躍した大学時代

習志野高校を卒業した阿部東司さんが進学したのは強豪・中央大学です。

高校時代から務めていた捕手のポジションで、大学でも引き続きチームを支える存在として活躍しました。

高校時代に掛布雅之さんとクリーンアップを組んでいた打力はもちろん、捕手としてチームをまとめるリーダーシップも発揮。

強豪ひしめく大学野球の世界でも、阿部東司さんはしっかりとその存在感を示していました。

電電東京(NTT東日本)で都市対抗へ

中央大学を卒業した阿部東司さんは、社会人野球の名門・電電東京(現・NTT東日本)へと進みます。

社会人野球の最高峰ともいえる都市対抗野球大会にも出場しており、1978年の第49回都市対抗野球大会への出場という実績を残しています。

小学6年生から野球を始め、中学では一度部をクビになりながらも、最終的には社会人野球の大舞台まで上り詰めた阿部東司さん

その野球キャリアは、息子・阿部慎之助さんに「僕のことを一番長く見ているコーチ」と言わしめるほどの確かな実力と経験に裏打ちされたものだったのです。

社会人野球を引退した後は、千葉県浦安市東建設株式会社を設立。

野球の世界から離れてからも、息子・阿部慎之助さんの野球人生を誰よりも近くで見守り続けていきます。

阿部慎之助が左打ちになった本当の理由

プロ野球ファンなら誰もが知る、左打ちの強打者・阿部慎之助前監督

しかし実は、もともとは右打ちだったことをご存知でしょうか。

左打ちに転向したのには、阿部東司さんだからこそ気づけた、ある深い理由がありました。

ここでは、阿部慎之助さんが左打ちになった本当のきっかけをご紹介します。

色弱と右目視力低下が左転向のきっかけ

阿部慎之助さんはもともと右打ちでした。

幼い頃、阿部東司さんがビニールボールとバットを渡して「振ってみろ」と言ったところ、障子に穴が開くほどの鋭い打球を放ち、その才能の片鱗を見せていたといいます。

このときは、右打ちだったのです。

ところが阿部慎之助さんが小学2年生のとき、阿部東司さんは学校から呼び出しを受けます。

そこで告げられたのが、阿部慎之助さんが「赤緑色弱」であるという事実でした。

赤と緑が混ざると紫に見えてしまうタイプの色覚特性で、阿部東司さんいわく「妻の父親も同じだったと後から聞いた。遺伝するんですね」とのことです。

さらに追い打ちをかけるように、その後まもなく右目の視力が急激に低下してしまいます。

医師に相談しても「突発的なものだからわからない」という答えしか返ってこず、阿部東司さんはどうすべきか真剣に悩んだといいます。

大学先輩のアドバイスで試したら即開眼

そんな阿部東司さんに、ひとつのヒントを与えてくれたのが大学時代の先輩でした。

その先輩から「左バッターは左目でボールを見る。右バッターは右目で見る」というアドバイスをもらったのです。

これを聞いた阿部東司さん「右目が悪いなら、左打ちにしてしまおう」と決断。

さっそく阿部慎之助さんをバッティングセンターに連れて行き、左打ちで打たせてみると、これが見事にヒット。

難なくボールをとらえてしまったのです。

「じゃあそれにしよう」——阿部東司さんはそのひと言で左打ちへの転向を決めました。

医学的な根拠に基づいた深い考察というよりも、父親としての直感と、大学先輩の言葉を組み合わせたシンプルな決断だったわけですが、これが後の阿部慎之助さんの打者としてのキャリアを大きく左右することになったのです。

視力の問題という、一見するとハンデにもなりかねない出来事を、むしろ才能を伸ばすきっかけへと変えてしまった阿部東司さんの判断力。

さすが、息子が「一番長く見ているコーチ」と信頼を寄せるだけのことはありますよね。

掛布の父に学んだ「褒める子育て」哲学

阿部慎之助さんをプロ野球選手へと育て上げた阿部東司さんの子育ての根幹には、高校時代のある忘れられない体験がありました。

それが「褒める子育て」という哲学の原点です。

ここでは、阿部東司さんがどのようにしてこの子育て哲学にたどり着いたのか、そのエピソードをご紹介します。

体罰時代に体験した「ほめる」衝撃体験

阿部東司さんが習志野高校野球部でプレーしていた時代は、指導者による体罰が当たり前のように行われていた時代でした。

ミスをすれば「愛のムチ」という名の鉄拳制裁が飛んでくる、そんな厳しい環境の中で選手たちは日々練習に励んでいたのです。

そんなある日、阿部東司さんがバッティングゲージで打撃練習をしていると、後ろからこんな声が飛んできました。

「阿部良いね!阿部良いね!」——そう声をかけてくれたのは、同級生・掛布雅之さんのお父さんでした。

体罰が横行していた時代に、他の選手を純粋に褒めてくれる大人の存在。

その体験は、阿部東司さんにとって非常に衝撃的なものだったといいます。

「自分の息子はとにかく褒めて育てよう」——このとき阿部東司さんの心の中に、そんな強い決意が生まれたのです。

ちなみに、掛布雅之さんのお父さんが他の選手を褒めていた理由を後から聞くと、「人の子だから、どうでもいいから」とのことだったそうです。

一方で自分の息子・掛布雅之さんには大変厳しかったというのですから、思わず笑ってしまうエピソードですよね。

「すげえ!惜しい!」だけの育て方の真意

では、阿部東司さんは実際にどのように息子・阿部慎之助さんを褒めて育てたのでしょうか。

阿部東司さん自身がその子育て論についてこう語っています。

「とにかく褒めてください。野球だったら野球を好きにさせてください。『スゲー』と『惜しい!』だけ。とにかく褒めてあげてください」

野球を始めた最初の頃、阿部東司さんはボールをトスして、阿部慎之助さんが捕ったら「すげえ!」、落としても「惜しい!」——ただその繰り返しだったといいます。

捕り方を細かく教えたり、叱ったりすることは一切しなかったそうです。

この「すげえ!惜しい!」の育て方には、大切な狙いがありました。

それは、まず野球を「好きにさせる」こと。

技術を教え込む前に、スポーツそのものを楽しいと感じさせることを最優先にしていたのです。

その効果は確かなものでした。

後に阿部慎之助さんが息子・成真さんとキャッチボールをする場面を見た阿部東司さんは、「すげえ!」と声をかける息子の姿に「同じだな」と思ったと振り返っています。

褒める子育ては、しっかりと次の世代へと受け継がれていたのです。

阿部成真さんについてはこちらを→阿部成真とは?父・阿部慎之助監督の息子が通う中学校や野球経歴を紹介

2000安打達成に寄せた父からの手紙

2017年8月13日、マツダスタジアムでの広島戦。

阿部慎之助さんが九回に右前打を放ち、プロ野球史上49人目の通算2000安打を達成しました。

この偉業を誰よりも喜んだのが、父・阿部東司さんです。

阿部東司さんはこの偉業達成を受け、息子・阿部慎之助さんへ直筆の手紙を送っています。

ここでは、その手紙に込められた父の思いと、阿部慎之助さんの体を作り上げた家族の軌跡をご紹介します。

「掛布のようになれ」と言い続けた真相

阿部東司さんが阿部慎之助さんへ送った手紙の中に、こんな一節があります。

「いつもお前には『掛布はこうだった〜』と言ってきた」——阿部東司さんは息子に対して、折に触れて高校時代の同級生・掛布雅之さんの話をし続けてきたといいます。

「掛布雅之は練習が終わってもティーを打って、家に帰ってまたスイングしていたらしいぞ。だから、あんなふうになれたんだ」

阿部東司さんが掛布雅之さんの名前を出し続けたのは、単なる昔話をしたかったからではありません。

努力を惜しまず、黙々とプレーでチームを引っ張っていく掛布雅之さんの姿勢を、息子に重ねていたからでした。

手紙の中で阿部東司さんはこうも記しています。

「慎之助と掛布は何となく似ているよ。俺はギャーギャー文句を言いながら引っ張っていく方だけど、慎之助は一生懸命やって引っ張っていく。掛布もそうだったんだよ」——高校時代に4番として同じグラウンドに立った掛布雅之さんの背中を、息子の姿に重ねながら見守り続けてきた阿部東司さんの深い愛情が伝わってくる言葉ですよね。

また、阿部東司さんはテレビで試合前の阿部慎之助さんの打撃練習を欠かさずチェックしており、引っ張り気味の打球が続くと、すぐさま個人トレーナーに電話をして「気分良く打ってんじゃねえ。飽きずに逆だ」と伝えていたというエピソードも残っています。

次のケージに入った阿部慎之助さんがちゃんと逆方向へ打っていた——まさに”遠隔コーチング”ともいえる関係性が、親子の間にあったのです。

母の食育と父の声かけが体を作った軌跡

手紙の中で阿部東司さんが特に強調していたのが、妻・由紀子さん食育の力です。

「『阿部東司の教えが〜』と言ってくれるけど、やっぱり女房よ」と綴るほど、母・由紀子さんの存在を高く評価していました。

由紀子さんは「生きることは食べること。食べることは生きること」という信念のもと、息子の体づくりに真剣に向き合い続けました。

幼い頃の阿部慎之助さんは「やせっぽこ」と言われるほど細身だったそうですが、小学5年生の頃を境に急変。

おにぎりを一度に7〜8個も食べるようになり、みるみるうちに体がたくましくなっていったといいます。

阿部東司さんは手紙の中でこう記しています。

「俺は野球を好きにさせただけだ」——褒め続けることで野球を大好きにさせたと、食で体の土台を作り続けた

この二人の役割分担が、プロ野球史に名を刻む強打者・阿部慎之助さんを育て上げた原動力だったのかもしれません。

2000安打という偉業に対して阿部東司さん「並大抵のことではない。たいしたもんだ」としみじみと喜びを語っています。

おしめをつけていた1歳半の頃から河川敷の草野球に連れ歩いた我が子が、プロ野球の歴史に名を刻む瞬間——その感慨はひとしおだったことでしょう。

浦安で建設会社を経営する現在の姿

社会人野球を引退した阿部東司さんは、野球の世界から離れた後も千葉県浦安市を拠点に充実した日々を送っています。

実業家として地域に貢献しながら、息子・阿部慎之助さんの野球人生を最も近くで支え続けてきた阿部東司さんの現在の姿をご紹介します。

東建設株式会社の設立と地域への貢献

社会人野球でのキャリアを終えた阿部東司さんが選んだ道は、起業でした。

千葉県浦安市に本社を置く東建設株式会社を設立し、地域に根ざした建設業を営んでいます。

浦安市といえば、阿部慎之助さんが幼少期を過ごした地元の町。

阿部東司さんはこの地で会社を立ち上げ、長年にわたって地域社会との深いつながりを築いてきました。

息子・阿部慎之助さんもこの浦安市への思い入れが強く、ふるさと納税として500万円を寄付したり、「阿部慎之助杯 少年野球大会」の開催に関わるなど、親子そろって地元への恩返しを続けています。

野球で培った粘り強さとリーダーシップを、そのままビジネスの世界でも発揮してきた阿部東司さん

経営者としての顔と、野球人としての顔を併せ持つその姿は、息子・阿部慎之助さんにとっても大きな背中として映っていたことでしょう。

浦安シニアのコーチとして息子を直接指導

実業家として会社経営に励む傍ら、阿部東司さんが力を注いできたのが、息子・阿部慎之助さんへの直接指導です。

阿部慎之助さんが中学時代に所属した硬式野球チーム「浦安シニア」では、阿部東司さん自らコーチに就任。

野球のルールから捕手としての心構えまで、自身が高校・大学・社会人と長年かけて培ってきた経験と知識を、惜しみなく息子へと伝え続けました。

阿部慎之助さんが「僕のことを一番長く見ているコーチ」と語るのも、まさにこうした背景があってこそです。

プロ入り後も、テレビ越しに打撃練習をチェックしては個人トレーナーを通じてアドバイスを送るなど、ユニフォームを脱いでからも“コーチ・阿部東司”であり続けました。

小学6年生から野球を始め、中学では部をクビになりながらも名門・習志野高校で甲子園を経験し、大学・社会人と野球を続けた阿部東司さん

その全てのキャリアと経験が、息子・阿部慎之助さんという一人のプロ野球選手を育て上げるための糧となっていたのです。

現在も掛布雅之さんとの交流は続いており、高校時代からの絆を大切にし続けている阿部東司さんの人柄がうかがえますよね。

阿部東司のまとめ

阿部東司さんの人生を振り返ってみると、その歩みそのものが型破りで、ドラマチックなものだったことがわかります。

小学6年生から野球を始め、中学では部をクビになりながらもサッカー同好会をサッカー部に昇格させて野球に復帰。

名門・習志野高校では掛布雅之さんと強力なクリーンアップを組んで甲子園に出場し、中央大学、電電東京へと野球キャリアを積み上げていきました。

そして引退後は、その全ての経験を息子・阿部慎之助さんへと注ぎ込みます。

色弱と視力低下という試練を左打ちへの転向というチャンスに変え、
体罰が当たり前だった時代に「すげえ!惜しい!」だけで野球を好きにさせ、
「掛布雅之のようになれ」と言い続けながら息子の背中を押し続けた
——そのひとつひとつの判断と行動が、通算2000安打・406本塁打を誇る名選手・阿部慎之助さんの土台を作り上げたのです。

阿部慎之助さんが巨人の監督として選手たちと真摯に向き合う姿、プレーで引っ張るそのリーダーシップ、そして子どもを褒めて育てる子育て観——これらのルーツをたどれば、必ず阿部東司さんという父親の存在にたどり着きます。

「俺は野球を好きにさせただけだ」と謙遜する阿部東司さんですが、その言葉の裏には、息子の可能性を誰よりも信じ、誰よりも長く見守り続けてきた父親の深い愛情があります。

阿部慎之助さんの野球人生は、まさに父・阿部東司さんあってこそのものだったといえるのではないでしょうか。