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川原嗣貴はなぜボールボーイに失言で怒られた?父母もすごい?

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Honda鈴鹿ドラフト候補川原嗣貴投手

川原嗣貴投手は、大阪桐蔭時代には3度の日本一に加え、U-18ワールドカップでは最優秀投手賞にも選出されてる本格派のピッチャーです。

そんな川原嗣貴投手ですが、高校時代に失言をしてしまい、西谷浩一監督を激怒させたことがあるとのこと。

その出来事は「川原騒動」と呼ばれているそうです。

そこで今回は川原嗣貴投手西谷浩一監督を怒らせた理由家族について調べてみました。

川原嗣貴のプロフィール

名前:川原 嗣貴(かわはら しき)
生年月日:2004年6月30日
出身:大阪府吹田市
身長:189cm
体重:96kg
投打:右投げ左打ち
ポジション:ピッチャー
経歴:吹田市立千里丘中学校→大阪桐蔭高校→Honda鈴鹿

川原嗣貴の失言

川原嗣貴投手失言して西谷浩一監督の怒りを買ったのは、高校2年生の秋明治神宮大会決勝での出来事でした。

この試合で川原嗣貴投手は、5回裏一死満塁という厳しい場面でリリーフ登板

わずか3球打者2人を打ち取り、見事にピンチを脱しました。

当初は次のイニングも続投予定でしたが、6回表の攻撃で大阪桐蔭の打線がつながり、川原嗣貴投手の打順が回ってきたため、代打が送られることになりました。

この時、もっと投げたかった川原嗣貴投手は、自分の代わりに出場するボールボーイの選手に対して
「なんだお前かよ」
といった類の言葉を漏らしてしまいました。
※この試合では、控え選手がボールボーイを務めていました。

この発言を耳にした西谷監督は
「ボールボーイかて力になってるんじゃ!」
と激怒し、川原嗣貴投手を厳しく叱責しました。

川原嗣貴投手はおそらく、わずか3球で降板となったことへの不満から出た言葉で、チームメートを本気で軽視する意図はなかったと思われます。

この出来事は、プレーの上手さだけでなく、選手の言動や姿勢にも厳格な西谷監督の指導哲学を表しているといえるでしょう。

どんなに野球が上手くても、間違った言動があれば正す—そんな西谷監督の姿勢はすばらしいと思いますね。

この後、川原嗣貴投手背番号1を付けるまでに成長し、翌春のセンバツ優勝翌秋の国体優勝につなげていました。

川原嗣貴の父母

川原嗣貴投手川原宏一さん元高校球児です。

奈良県立広陵高校(現大和広陵高校)4番打者兼エースとして活躍し、1985年センバツに出場。

甲子園では1回戦で東海大五に4対0から逆転負けを喫しています。

実は川原嗣貴投手高校2年夏甲子園では同じ4対0というスコアから逆転負けを経験していました。

実は川原の父・宏一さん(58)も85年センバツに広陵(奈良=現大和広陵)のエース兼4番で出場。1回戦で東海大五(福岡)に、この日と同じ4―0から逆転負けを喫している。

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川原嗣貴投手お母さんの名前は川原綾子さんです。

綾子さんは前述の「川原騒動」の後、落ち込む川原嗣貴投手
「困難は乗り越えられる人にしかこない。すべてを受け入れなさい」
と書かれた手紙を送っています。

川原嗣貴投手はその手紙を読んで、さらに懸命に練習に取り組むようになり、また、仲間たちを気遣えるようになっていったそうです。

はっとした。ふだんからピンチの場面や苦しい状況を想定して練習をするようになった。仲間のミスにも「気にするな」と声をかけるようにした。自然と制球力も高まり、投球の幅も広がった。信頼を取り戻し、春は10だった背番号はこの夏、1になった。

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川原嗣貴のまとめ

高校卒業時には指名漏れを経験している川原嗣貴投手ですが、社会人では10kgちかく増量し、最高球速は152キロまでアップしています。

自分を厳しく叱ってくれた西谷浩一監督や、これまで支えてくれたお父さんお母さんのためにも、高卒社会人3年目の今年はプロ入りを果たしてほしいですね!