魚住彰吾さんは日本人として初めて「セネガル相撲」のプロ選手になった、前代未聞の挑戦者です。
現在の拠点は、日本から約1万4,000キロ離れたアフリカ最西端の国・セネガルの首都ダカール近郊の漁師町ヨフ。
セネガルの人たちに交じりながら、一人暮らしています。
いったい、なぜセネガルに?
そもそも「セネガル相撲」って何?
気になりますよね。
まずはそこから説明しましょう。
「セネガル相撲」って、どんな競技?
アフリカ大陸の最西端に位置するセネガル。
その首都ダカール近郊に広がる海岸線には、「筋肉海岸」という異名があります。
砂浜では毎日、筋骨隆々の男たちが駆け回り、激しく組み合っている。そんな光景が日常的に広がっているんです。
彼らが命を懸けて取り組む競技、それが「セネガル相撲」です。
砂の上で相手を地面に倒したら勝ち、というシンプルなルールですが、組技・足技はもちろん、素手による打撃までアリという本格的な格闘技でもあります。
その歴史は14世紀にまでさかのぼるとも言われており、セネガル独立後は国民的スポーツとして爆発的な人気を獲得。
2018年には首都ダカールに2万人収容の専用スタジアムまで完成しました。
そしてこの競技、とてつもない”熱量”を持つ理由がもう一つあります。
トップ選手ともなれば、1試合で日本円にして約4,000万円を稼ぐとも言われているんです。
セネガルの平均年収が30万円に満たないことを考えると、まさに一夜にして人生が変わる舞台。
そんな、簡単には踏み込めない”異国の国民的格闘技”の世界に飛び込んだのが、冒頭でご紹介した魚住彰吾さんです。
いったいどんな経緯で、この道を歩むことになったのでしょうか。
驚きに満ちた魚住彰吾さんの歩みを、一緒に追いかけてみましょう。
セネガル相撲レスラーをしている魚住彰吾です。 pic.twitter.com/Xl4ZaVv76h
— UOZUMI Shogo (@LUTTE_SongoTINE) May 6, 2025
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魚住彰吾のプロフィール
名前:魚住 彰吾(うおずみ しょうご)
生年月日:1993年度生まれ
出身:兵庫県
身長:172cm
経歴:神戸市立垂水中学校→育英高等学校→専修大学
魚住彰吾の家族~柔道一家に生まれて
魚住彰吾さんの家族は兵庫県のいわゆる「柔道一家」でした。
父は元実業団選手、母は黒帯、兄も姉も柔道をやっている。
そんな環境ですから、魚住彰吾さんが道場に通い始めたのは、物心つく前のことです。
自然と畳の上に立つことが、日常になっていきました。
通っていたのは、名門「兵庫少年こだま会」。
ピンと来る方もいるかもしれません。
そう、2021年東京五輪で兄妹そろって金メダルを獲得した阿部一二三・阿部詩兄妹が幼少期に学んだことでも知られる、あの道場です。
そんな名門の空気の中で、魚住彰吾さんも着実に力をつけていきました。
小学校5年生になると、同じこだま会に通う友人の勧めでレスリングにも取り組むように。
ここから、魚住彰吾さんの競技人生は新たな局面を迎えます。
魚住彰吾の中学時代~父の言葉が、すべてを変えた
中学時代、魚住彰吾さんは地元・神戸市立垂水中学の柔道部に所属していました。
そして迎えた、中学生最後の大会。
魚住家には、絶対に負けられない理由がありました。
「県大会での優勝」です。
兄も姉も、みんな優勝していました。
父からは大会前に
「県ぐらい取れないなら柔道をやめろ」
と言われていたんです。
しかし結果は、優勝ならず。
重い足取りで自宅に戻ると、そこには正座をした父と兄が待ち構えていました。
「柔道をやめろ」
有無を言わさぬ空気の中で、そう迫られます。
「やめません」と、魚住彰吾さんは応じませんでした。
すると父と兄はさらに圧力をかけ、ついには手をあげた。
ただ、ここで魚住彰吾さんが意地を張ったのは、柔道への熱い情熱からではありませんでした。
安易に「やめる」と言えば、火に油を注ぐことになるかもしれない。
そんな冷静な、あるいは切実な判断があったといいます。
結果として魚住彰吾さんは柔道から離れ、レスリングへと完全に転向することになりました。
魚住彰吾の高校大学時代~エリートへの道
高校は、リオデジャネイロ五輪代表の井上智裕選手らを輩出した強豪・育英高校へ。
魚住彰吾さんはここで頭角を現し、2011年全国高校生グレコローマン選手権66キロ級で準優勝という結果を残します。
その実績を引っさげ、特待生のような形で進学したのが専修大学経済学部。
大学でも躍進は止まらず、全日本大学グレコローマンレスリング選手権での準優勝をはじめ、国際大会でも入賞。
ジュニアナショナルチームのメンバーにも選出されました。
傍から見れば、将来を嘱望されたエリート選手。
しかし魚住彰吾さん自身は、心のどこかで冷めていました。
「柔道もレスリングも、決して好きでやっていたわけではなかった」
と、当時をそう振り返っています。
厳しい父のもとで積み上げてきた競技人生。
その実力は本物だったけれど、心から燃えることができなかった。そんな葛藤を抱えたまま、大学卒業後はきっぱりと競技選手をやめようと、魚住彰吾さんは決意したのです。
魚住彰吾のJICA青年海外協力隊時代~消去法でセネガルへ
大学卒業後、魚住彰吾さんが考えていたのは不動産業界への就職でした。
競技はやめる。
次は全く畑違いの世界へ。
そう決めていたところに、待ったをかけたのがコーチの一言でした。
「不動産の世界にはいつでも行ける。もう少し視野を広げてみろ」
この言葉が、魚住彰吾さんの人生を大きく動かします。
勧められたのはJICA青年海外協力隊。
競技者としてではなく、途上国でレスリングを「広める人」として生きる道が、新たな目標になりました。
派遣候補国はいくつかありました。
第一志望はペルー。
しかしすでに定員が埋まっていました。
次に目を向けた東南アジアの候補地はベトナムでしたが、同じ東南アジアのタイに渡航経験があり、食事が合わなかった記憶が引っかかります。
残るは、アフリカ。
候補地の一つ南スーダンは、魚住彰吾さんが協力隊入りを考えていた2016年、タイミング悪く内戦状態にありました。
そうして最後に残ったのが、セネガルだったのです。
当時の魚住彰吾さんとセネガルの間には、何の接点もありませんでした。
言わば、完全な消去法。
それでも2017年1月、魚住彰吾さんは2年の任期でセネガルの地に降り立ちました。
派遣先は首都ダカール隣県・ティエスにある国立国民スポーツ教育大学。
レスリングの授業実施や指導サポートが当初の目的でしたが、現地ですぐに現実の壁にぶつかります。
セネガル国内のレスリング人口は100人足らず、子どもにいたってはほぼゼロ。
これでは大学で教えているだけでは、普及など到底かなわない。
それでも魚住彰吾さんはめげませんでした。
まず取り組んだのは、子ども向けレスリング教室の開設。
ほとんどいなかった若年層の競技人口を、一から作り上げていきます。
さらに派遣から8か月ほどたった頃、セネガル初となる少年少女の公式レスリング大会の開催に向けて動き出しました。
しかしこれが、想像以上の難路でした。
セネガル相撲協会や国・州・県にまたがる各行政機関に協力を呼びかけるものの、主導権争いや運営方針をめぐる対立から不和が生じ、大会開催は2度とん挫。
任期内での実現が危ぶまれる瞬間もあったといいます。
それでも魚住彰吾さんは各地に直接足を運び、不満を抱える行政機関の長たちの話に耳を傾け、ときに間を取り持ちました。
テレビやラジオにも出演し、レスリングの魅力を粘り強く発信し続けたのです。
そんな魚住彰吾さんを異国での孤軍奮闘を支えてくれた存在がいました。
セネガル相撲の選手でもあり、数少ないセネガル人レスリング競技者の一人でもあるシェール・バッジャンさんです。
二人はスパーリングを通してすぐに意気投合し、言葉もままならない中、1歳年上のバッジャンさんが右も左もわからない魚住彰吾さんをずっと支え続けました。
そして構想から約9か月、ついに少年少女レスリング大会は実現します。
ほとんどゼロだった若年層のレスリング人口は50人にまで増え、国をあげて子どもたちを支援する土台もできあがりました。
任期満了の日、魚住彰吾さんはバッジャンさんに「いずれ戻る」と約束して帰国します。
セネガルでの2年間は、消去法で選んだ国が、かけがえのない場所に変わった時間でもありました。
魚住彰吾とSongo TINE
魚住彰吾さんはSNSではSongo TINEという名前を使っています。
TINEとはJICA青年海外協力隊としてセネガルに派遣された魚住彰吾さんが、一時ホームステイした家族の名字です。
セネガルは家族や地域のつながりを何より大切にする文化が根付いている国です。
血のつながりがなくても、食卓を囲み、同じ屋根の下で暮らした人は「家族」になる。
そんな空気が、社会全体に自然と流れています。
ティネ家のホストファザーもまた、魚住彰吾さんをわが子のように迎え入れてくれました。
異国からやってきた若い日本人を、温かく、力強く、包み込んだのです。
2022年、コロナ禍を経てセネガルへの本格移住を果たした魚住彰吾さんは、レスリング普及活動の資金が底をつきかけていた頃、SNSでの発信を本格的に始めます。
そのとき名乗ったのが、「Songo TINE」という名前でした。
「TINE」はホストファザーから受け継いだ、ティネ家の姓。
そして「Songo」はウォロフ語で「攻撃する」といった意味を持つ言葉から取られています。
てっきり、魚住彰吾さんの名前「彰吾(しょうご)」が由来でかと思っていましたが、違うんですね。
ホストファザーから授かった名字を、自分の看板として掲げる。
それは単なるSNSのアカウント名ではなく、ティネ家への敬意と感謝、そしてセネガルへの帰属意識の表れでもあったのではないでしょうか。
魚住彰吾とコロナ
任期を終えて帰国した魚住彰吾さんを待っていたのは、世界を一変させた出来事でした。
2019年末から広がり始めた新型コロナウイルスの感染拡大。
2020年3月にはWHOがパンデミックを宣言し、渡航制限が世界中に広がります。
「いずれ戻る」と約束したバッジャンさんへの言葉も、ティネ家への思いも、すぐには果たせない。
魚住彰吾さんは事務職として働きながら、資金を貯め、ただじっとその時を待ち続けました。
2022年、各国でビザ発給や入国制限の緩和が進むと、魚住彰吾さんはセネガルへの本格移住を決断します。
待っていたのは、仕事でも名声でもありませんでした。
帰りを待つバッジャンさん。温かく迎えてくれるティネ家。
町で「Songo!」と駆け寄ってくる子どもたち。
兵庫で生まれ育った魚住彰吾さんにとって、セネガルはいつしか「帰る場所」になっていたのです。
魚住彰吾とセネガル相撲
セネガルに移住した魚住彰吾さんの中に新たな目標が生まれます。
セネガル相撲のプロ選手として、試合に出ることです。
しかしそこには、想像以上の壁がありました。
まず選手になるにはライセンスの取得が必要です。
日本レスリング協会の海外遠征大会出場許可証や親の承諾書など、さまざまな書類が求められます。
ライセンスには「殴りあり」「殴りなし」の2種類があり、魚住彰吾さんは両方に加えて指導者ライセンスまで取得しています。
さらにプロの試合に出るには、セネガル相撲協会に登録されたチームへの所属が必須。
ところがこのチームの文化が、日本の角界における「部屋」に近い閉鎖的なもの。
ほとんどの選手は生まれ育った町のチームに所属し、父や祖父の代からセネガル相撲を続けてきた家柄の選手も少なくありません。
セネガル人でさえ、民族や出自が違うことを理由に入団を断られることがあるほどです。
それでも魚住彰吾さんは諦めませんでした。
青年海外協力隊として活動していたティエス県のチーム「エコール・ドゥ・リュット・サンバ・ジャウ」、ティエスで2番目に歴史の古いチームの一員として認められたのです。
大学卒業後、長らく競技から離れていた魚住彰吾さんが本格的な練習を再開したのは2024年9月のことでした。
セネガル相撲は事実上の無差別ルール。
まずは増量から始め、ウエイトトレーニングと海沿いのランニングで体を作り直しました。
チームの練習は週3回の組み技、週2回の浜辺でのフィジカルトレーニング。
そして定番の修練が、砂浜でのウサギ跳びです。
足腰が基盤という考えがセネガル相撲には深く根付いており、足腰のトレーニングを好む選手が多いといいます。
そうして迎えた2025年4月19日、公式戦2戦目となる試合の日。
対戦相手は40代、30戦近いキャリアを持つベテラン選手のWouly(ウーリー)でした。
身長180センチ超、体重110キロ超の巨漢です。
対する魚住彰吾さんは172センチ、80キロ超。
しかもウーリー選手は一度現役を退いていたにもかかわらず、「Songoとなら試合をする」と復帰してきた強者。
試合が始まった瞬間から防御も気にせずパンチで圧力をかけてくる、アグレッシブなスタイルでした。
結果は、魚住彰吾さんの勝利。
「セネガルではこの日本人ソンゴ・ティンの勝利は歴史に刻まれましたと言われており、とても名誉なことだと感じています」
と、魚住彰吾さんは静かに、しかし力強く語っています。
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魚住彰吾のまとめ~日本とセネガルの架け橋へ
消去法で選んだ国が、人生をかける舞台になった。
柔道一家に生まれ、レスリングエリートとして歩みながら、心から燃えることができなかった青年が、アフリカの砂の上でようやく「本当にやりたいこと」を見つけました。
魚住彰吾さんが掲げる目標は、明確です。
「セネガル相撲だけで飯を食える外国人第一号になること」
プロのセネガル相撲選手になった外国人は、歴史上まだ2人しかいません。
1人目はスペイン人のホアンという選手。
そして2人目が、魚住彰吾さんです。
しかしセネガル相撲だけで生計を立てた外国人は、いまだゼロ。
誰も到達したことのない場所を、魚住彰吾さんは目指しています。
現在のファイトマネーは1試合約20万円。
最低額が2万円ほどというセネガル相撲界では、魚住彰吾さんの人気がすでに際立っている証拠です。
それでもトップ選手の4,000万円には、まだ遠い。
「当面はファイトマネーを1試合ごとに倍額にしていきたい」
と、着実に、しかし力強く前を向いています。
魚住彰吾さんの活動は、自身の試合だけにとどまりません。
日本の格闘界とセネガルをつなぐ架け橋としての役割も、大きくなっています。
実はセネガル相撲の選手たちは、世界の格闘技シーンでも存在感を放ち始めています。
総合格闘技団体「ONEチャンピオンシップ」で2024年ヘビー級チャンピオンに輝いた”ルグルグ”ことオマール・ケインも、セネガル相撲で16戦全勝という圧倒的な実績を持つ選手でした。
魚住彰吾さんがつないだ選手たちも、日本の格闘技シーンで爪痕を残し始めています。
2025年11月にGLADIATORデビュー戦で元王者にKO勝ちしたアルブリー・ンジャイ、K-1デビューを控えるチャート・ヨフ、RIZINに出場したチャートゥ・バンビロール、RUMBLEチャンピオンのアサン・ゲイデ。
魚住彰吾さんが蒔いた種は、確実に芽吹き始めているのです。
「格闘技と言えばセネガル、そんな時代が来てもおかしくないと思っています」という言葉は、夢物語ではなく、着実な現実として近づいてきているのかもしれません。
「自分が頑張ることで、私以外の他の誰か1人でも多くの方に、夢や希望が与えられるように日々精進していきます」
魚住彰吾さんのこの言葉が、すべてを物語っています。
セネガル相撲の魅力を日本に伝えること。
日本の格闘技文化をセネガルに届けること。
そして砂の上で勝ち続け、前人未到の場所へたどり着くこと。やることは山積みです。
でも魚住彰吾さんの目は、迷いなくその先を見据えています。
柔道もレスリングも、好きでやっていたわけではなかった。
そう語っていた青年が、今は1万4,000キロ離れたセネガルの砂浜で、心から燃えている。
Songo TINEの挑戦は、まだ始まったばかりです。

