野球

手塚周(SUBARU)は立教大出身のドラフト候補!父や福島高校時代の成績は?

SUBARUのドラフト候補・手塚周投手。

最速148km/hを投げるプロ注目のピッチャーです。

中学2年の3月には東日本大震災を経験

その後も、右ヒジを故障したり、浪人したり若いのになかなか苦労している選手です。

それでも、大学2年春には先発2番手として活躍し、59年ぶりの日本一を達成しています。

プロフィール

名前:手塚 周(てづか しゅう)
生年月日:1996年5月28日
出身:福島県双葉町
身長:180cm
体重:79kg
投打:右投げ左打ち
ポジション:ピッチャー
経歴:浪江町立浪江東中学校→福島第三中学校→福島高校→立教大学

中学時代

浪江東中学校時代は軟式野球部に所属。

相双選抜(相馬・双葉地区の選抜野球チーム)入りを経験しています。

その後原発事故の影響で、避難生活を経験。

3年生から福島第三中学校に転校しました。

中学卒業後は、父親の母校でもある県立福島高校に進学します。

手塚投手の父・徹さんも高校時代は野球をやっていました。ポジションはキャッチャー。

当時のチームメイトには聖光学院の現監督・斎藤智也さんや元プロ野球選手の鈴木哲さんらがいましたが、甲子園出場はなりませんでした。

高校時代

高校では1年夏の福島県大会から背番号20でベンチ入り。

リリーフとして3試合に登板し、合計10回1/3を無失点に抑えています。

翌2年夏の福島県大会では背番号1を付けて臨みますが、日大東北にコールド負け。

2年秋の大会では背番号1こそ同期の松下圭太投手(宮城教育大→高知ファイティングドッグス)に譲りましたが、
背番号11を付け、全3試合に先発し、ベスト8入りに貢献しました。

その後右肘を痛め、主に外野手としてプレー。

3年夏の福島県大会では4番ライトで出場し、3回戦敗退に終わっています。

浪人時代

高校3年生の時は東京六大学に憧れ、受験するも不合格。

1年間仙台の予備校で浪人生活を送ります。

浪人時代は、キャッチボールなどは出来ずに受験勉強のストレス解消を兼ねた約1時間のランニングが唯一のトレーニングでした。

しかし、そのおかげで、高校時代痛めた右ひじを十分休めることができたそうです。

受験も立教大学に一般受験で合格しました。

大学時代

大学では1年秋からリーグ戦に出場します。

2年春のリーグ戦で、同期の田中誠也投手に次ぐ先発2番手の座をつかむと、3勝1敗、防御率2.95の好成績で35シーズンぶりの優勝に貢献

続く大学野球選手権でも、準々決勝と決勝の先発を任され、59年ぶりの日本一を達成しました。

プレースタイル

手塚投手は最速148km/hオーバースローのピッチャーです。

変化球はスライダー、スプリット、チェンジアップ、カーブなど。

ストレートと変化球を同じ腕の振りから投げられる器用さが武器。

高校時代は4番を任されていたほどの強打者で、野手としてもスカウトから注目されていました。

まとめ

「野球を続けている以上、プロを目指す気持ちでやっていきたい」
と言う手塚投手。

大学3年春以降は0勝に終わっていて、大卒でのプロ入りは少し厳しいかもしれません。

それでも、これまでいくつもの困難を乗り越えてきた手塚投手です。

少し遠回りはするかもしれませんが、いつかはプロまでたどり着いてくれるはずです!